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passing

小説や作詞について書きますし、余計なこともたくさん、そして自分の決心について日々思うことなんかも書くかもしれません

「Air」.92

「それじゃあ、本番いきまーす! 5,4,3,2,1…」
「やっぱり…やっぱり逃げたくないんです!ここで逃げてしまったら、これから先なにをやってもうまくいかないような…そんな気しかしないんです。」
「……あなたの顔を見て何を言っても無駄だって感じたわ。いいわよ、自分の好きにやりなさい。責任は私が取るわ」
「篠沢さん…ありがとうございます!わたし精一杯頑張らせてもらいます!」
わたしは振り返って整備場の方へと走る。…今のも上手くできたかも。
「篠沢さん…いいんですか?夏野に任せてしまって?」
「構わないわ。彼女ならきっとできる。それにあなただって他人の心配してられる状態じゃないでしょ?社内恋愛するのは構わないけれども、プライベートと現場ではけじめをちゃんとつけてよね」
「……僕と亜美ちゃんとのことを知っているんですか?」
「知っているもなにも、今はその噂しか聞かないわ。本人たちの問題を職場に持ち込まれると、嫌でも周りは気を遣ってしまうのよ。それってはっきり言って迷惑なの。それにそういうトラブルじみたことって会社は一番嫌いなのよね。お互いのこれからにも間違いなく傷が入ったでしょう。よく考えなさい」
そのセリフを発して伊藤さんは向こう側の扉に消えていった。本当にすごい迫力…伊藤さんのような実力派の女優さんはオーラとか威圧感が全然違う。普段はあんなにいい人なのに撮影中は悪女役にこんなに綺麗に染まれるんだもんな。
「くそっ!あのやろう。俺と亜美ちゃんの関係を笑いものにしやがって…やり返してやる」
「ハイカーット!」
「オッケー!今の感じいいよ!続けて次のシーンいっちゃおう!」
わたしは自分の映らないシーンの撮影が始まるから、いったんカメラの前を離れて控えようのイスに座った。
「はい、いきまーす! 5,4,3,2,1……」
「亜美ちゃん…今日は何時くらいには仕事終わりそう?」
「え、今日は6時にはきっとあがれると思うけれども……」
「俺は今日は5時上がりだからいつものとこで待ってる。…今日会えないかな?」
「大丈夫だけれども……」
「……もしかして亜美ちゃんも篠沢に何か言われたの?」
「……うん」
「あいつ亜美ちゃんにまで…許せない」
「英樹さんも篠沢さんから何か言われているの?」
「ああ。きっと亜美ちゃんと同じことを言われているよ。でも、大丈夫!俺がなんとかするから!だから亜美ちゃんは何も不安になることないからね!」
「英樹さん…うん!私は英樹さんのこと信じてついていくからね!」
「ありがとう。詳しいことはじゃあ、また後でね。篠沢にまた何か言われても気にしちゃダメだからね」
「うん!じゃあ、またね」
……
やっぱりこの世界の先輩たちの演技は違うな…ここで待機している度に何度もそう感じさせられる。監督に褒めてもらったけど、でもそれはわたしが新人だからだよね。この人たちと比べられたらわたしなんて比にならないもん。伊藤さんにしても、盗めるところはどんどん盗んで自分の力にしていかないと。
「カットー!次はミーティングのシーンいくよ!」
わたしの出番だ。立ち上がって、わたしは膝の上にかけていた毛布をイスに置いた。その時、空斗くんの姿が一瞬目に入った。彼はずっと撮影の様子をただ真剣に眺めているんだと思う。

「篠沢さん、明日の変更は以上でよかったですか?」
「ええ、いいわよ。ありがとね」
「わかりました!2番グループの人達に伝えてきますね!」
「夏野ちゃん、これもお願いしてよかったかしら?」
「はい! これは…、糸魚さんに渡しておけばいいですか?」
「そうね。彼で大丈夫だと思うわ」
「わかりました!」
……
「……なんで俺や亜美ちゃんがこんなに冷遇されているのに、夏野のやつは良くされてるんだよ、亜美ちゃんのが2年先輩だし、俺は6年も先輩だ。仕事だって俺や亜美ちゃんのがよっぽど出来る。…もしかして、俺よりも先にリーダー任されたりしないよな?あいつ」
「カット!オッケー!じゃあ、AD君たち資材もってきてくれるかな?」
「わかりました!」
……
わたしはADさんたちが小走りで走っていくその背中を眺めていた。
「希ちゃん」
優しく落ち着いた声でわたしの名前を呼ぶ人がいる。振り返ると、伊藤さんがいた。わたしを見る伊藤さんのその優しい表情に「篠沢明美」の面影はない。