passing

小説や作詞について書きますし、余計なこともたくさん、そして自分の決心について日々思うことなんかも書くかもしれません

「Air」.131

どれくらいの時間が経ったのかわからなかったけれども、少し落ち着いた希は立ち上がって事務所に向かった。歩いている最中に涙が乾いた両方の手のひらは、希から自由を奪ったような、そんな感覚に陥らせていた。

希が事務所に着いた時、事務のおばさんたちは心配した。希の目が真っ赤に充血していて顔色も青ざめていたから。その話を聞いた吉田さんはレッスンを抜け出して、希がいるラウンジに慌てて駆け付けた。希は事務のおばさんたちに囲まれてげっそりとした表情で力感なく座っていた。その姿を見た吉田さんはつい数時間前に事務所で起きた事との結びつきを理解した。

「由紀が事務所をやめた」。その事実は吉田さんの口から希に告げられたの。そのことを伝え、少しの時間が経つと吉田さんはレッスンへと戻っていった。吉田さんが居なくなった後、事務のおばさんたちはその時の話をしてくれた。――由紀は涙ながらに事務所に現れると、いきなり「事務所をやめます」って言いだしたみたい。おばさんたちも必死の説得をしていたんだけど、そこに吉田さんと優香先生が現れた。すると由紀はすぐに吉田さんに何かを言ったの。その言葉は当人以外には誰も聞こえていなかった。ただ、その後の吉田さんは慌てた様子で、由紀を連れて空いている部屋で面談を急遽行った。30分程で由紀はラウンジに戻ってきたの。そしたら優香先生とおばさんたちに「今日限りで事務所をやめさせていただきます。本当にお世話になりました」と伝えて出て行った。でもね、優香先生もおばさんたちも、何か不自然さを感じていたの。5年在籍していた由紀が事務所をやめるというのに、面談を終えた吉田さんはラウンジに戻っては来なかった。それに由紀のようなしっかりした人間がやめるのにも関わらず、社長に何の相談ない僅かな時間で、今まで手塩にかけて育ててきた由紀の辞意をなぜ受け入れてしまったのか…… 次の日もその次の日も、社長は由紀の事務所脱退には触れなかった。それからも、吉田さんと社長の関係にヒビは一切入っていなかった。

この時からかな。事務所に何か不穏な空気が流れ始めていったのは。それでも、吉田さんも社長も希には優しかった。空斗くんと由紀を一気に失った希には、この「大人」の優しさだけが心の救いだった。