passing

小説や作詞について書きますし、余計なこともたくさん、そして自分の決心について日々思うことなんかも書くかもしれません

「Air」.134

しかし、この2年間で希とは正反対に大きく評価を伸ばしていた女優がいた。その女優の名は藍沢幸奈。本名は…田中由紀。 そう。あの日事務所を辞めて出て行った由紀だった。由紀はマツダプロダクションのライバル事務所であるキリタニプロダクションに禁断の移籍を行っていた。希も事務所も、由紀とはあの日以来連絡を取っていなかった。だからその事実がわかった時には事務所は大騒ぎだった。キリプロはわざわざ禁断の移籍というハイリスクを冒してまで由紀を獲得した。それはいわば、キリプロと由紀の、マツプロに対する宣戦布告だった。その戦いは、同い年であり、かつての親友である希と由紀の女優二人の戦いが主戦となった。「アフター5の恋」で一躍脚光を浴びた「横山希」。対して、マツプロ時代はレッスンの日々で無所属からキリプロに拾ってもらった「藍沢幸奈」。当初、勝負は一方的なものだと思われていた。しかし、事務所の万全の体制でのバックアップもあって由紀はメキメキと頭角を現した。希は女優としての最大の武器を失っていたうえに、事務所のバックアップ自体もちぐはぐだった。事務所では何かを察した優香先生を始めとする何人かの人たちが辞めていっていた。

この間に、マツプロはキリプロに大きな後れを取る形になり、希自身も由紀に形勢逆転を許した形となった。そんな中で、社長は最後の希望と言わんばかりに、「アフター5の恋」監督の武井昭監督が指揮を執る作品に希を強く推薦した。武井監督自身、希の女優としての復活を願っていた人間であり、これを快く受け入れてくれた。事務所としても原点回帰をかけ武井監督に希を任せ、金曜夜9時放送のこのドラマに事務所の命運をかけていた。それはかつてと同様に、今回のドラマの撮影開始前の社長と吉田さんを交えた面談でも希に伝えられていた。でも、女優としての自信と楽しさを完全に喪失していた希にはただの重荷にしかならなかった。